過去の地震災害と今後の地震(活断層)の可能性について

スポンサーリンク

昭和南海地震は火災被害が甚大だった

1946年12月21日、紀伊半島沖で、マグニチュード8.0の地震が発生しました。

死者1330人、全壊家屋1万1591戸、津波による流失家屋1451戸、消失家屋2587戸と、甚大な被害となりました。

兵庫県全体でも、淡路島を中心に、死者50人、全壊292戸、津波での床上浸水361戸の被害が生じました。

昭和南海地震の規模、機構

昭和南海地震は南海トラフ沿いの潮岬(しおのみさき)南方沖78km、深さ24kmが震源です。

昭和南海地震は、安政南海地震以来の南海地震でした。

昭和南海地震の2年前の、1944年に東南海地震発生しました。

昭和南海地震の連動と考えられています。

この地震は、ユーラシアプレートに、フィリピン海プレートが沈み込む海溝型地震です。

地震動はおよそ9分間でしたが、強い震動は、およそ1~2分でした。

大阪市や神戸市で震度4、兵庫県洲本市で震度5でした。

震源断層面の規模は、長さ120km、幅80km、滑り量3.1mで、モーメントマグニチュードは8.1でした。

このマグニチュードは、岩盤のずれの規模をもとにして、算出したものです。

この地震は、紀伊半島沖から破壊が始まり、室戸岬沖まで達しました。

そこからさらに土佐沖まで、2段階ですべったとされています。

地殻変動は、南上がりの傾向を示しました。

室戸岬で、1.27メートル隆起したのに対し、北部の甲浦(かんのうら)では、1メートル沈下しました。

津波は、静岡から九州に至る海岸を襲いました。

高知、三重、徳島沿岸では、津波の高さは、4~6メートルでした。

和歌山県串本では、10分後に6.57メートル、三重県賀田村では20分後に3.59メートル、大阪港では2時間後に0.8メートルを示し、さらに複数の波が襲いました。

昭和南海地震では、和歌山県新宮(しんぐう)では猛火により、甚大な被害を与えています。

津波や建物の耐震だけではなく、火災に備える心構えも大切です。

特に津波火災に、どのように対応するのかが、大きな問題でしょう。

安政南海地震から90年ぶりで、周期的に昭和南海地震が発生しています。

今後30年で発生する地震の確率は、きわめて高いのです。要注意です。

兵庫県北部の北但馬地震と復興 住民参加の復興計画

北但馬地震とは

北但馬地震は、1925年5月23日午前11時10分、兵庫県北部の旧豊岡市・城崎を襲いました。

421人の死者を出した大地震です。

この地震で大きな火災が発生し、豊岡では半数の家屋が焼けました。

この地震で、城崎では、人口の8パーセントの人が亡くなりました。

ボランティアなどによる救援が、さかんに行われました。

さらに、城崎では住民が参加して、温泉復興を唱えました。

近代的な防災技術を取り入れつつ、自然の要素を取り入れ、町全体で、防災計画が行われ、復旧・復興したのです。

北但馬地震と田結断層(たいだんそう)の概要

北但馬地震の震源地は、兵庫県の日本海に面する、円山川河口付近です。

地震の規模は、マグニチュード6.8、深度は50~60キロメートル、初期微動断続時間13秒、周期は1.6秒でした。

豊岡や城崎(現豊岡市)で震度6、京都でも深度5を記録しました。

北但馬地震は、本震の後にマグニチュード5や6クラスの、大きな余震を伴いました。

北但馬地震では、鉢ヶ成山と津居山湾東岸(ついやま)で、2列の田結断層(たい)が見つかりました。

この地震による、地表地震層と考えられています。

断層の長さは1600メートル、両断層の間は400メートルです。

断層南端の海岸では、崖崩れが起こりました。

また、大小10数条の割れ目が発生し、その幅は20~30センチ、高低差は10~50センチ、断層の西側が落下しており、数センチの水平移動もありました。

津居山海岸の断層崖と、平行している田結断層(たい)は、津居山湾の陥没と同じく、西側に落ちています。

このことから、過去にも、この地域で、繰り返し断層運動があった可能性があります。

それが、このとき活動した、内陸直下型地震と思われます。

北但馬地震の被害概要

北但馬地震では死者421人、負傷者804人、全壊家屋1275棟、火災消失家屋が2,180棟の大被害となりました。

地震と火災を含めたのが、北但馬地震と言います。

地震の初動で、多くの住宅が倒壊した可能性があります。

震央付近の円山川河口付近では、家屋倒壊率が50パーセント以上、円山川から離れるに従い、家屋倒壊率が20パーセント以上と、減衰します。

円山川河口部が、沖積粘土層が発達した、軟弱な地盤であることや、大部分が、耐震性のない木造住宅が使用されていたことが、大災害となりました。

北但馬地震では大規模な地震火災が発生ししました。

特に、被害が大きかったのは城崎です。

正午であったことも災いし、地震時の戸数702戸中、消失家屋548戸と、78.1パーセントの家屋が焼失しました。

272人が犠牲となりました。当時の人口3410人の、およそ8.0パーセントの人が亡くなりました。

被害者の71パーセントが、温泉街で働く女性従業員でした。

豊岡でも、半以上にあたる1383戸が倒壊しました。

円山川河口部の津居山(ついやま)、田結(たい)、気比(けひ)、飯谷、小島、桃島の村落では、倒壊や家屋焼失で、壊滅状態となりました。

なお、田結(たい)では1戸を残し全戸が倒壊し、数箇所以上で火災が発生しましたが、初期消火が行われたため延焼が防がれ、火災の死者を出しませんでした。

城崎の復興計画

城崎では、地震前は旅館や商店など、木造高層住宅が川沿いに無原則で建ち、さらに奥に入ると狭隘(きょうあい – 狭いこと)な通路が混在していました。

城崎は川沿いの県道が、唯一の主要道路で、道幅は約1間半しかなく、地震時に発生した火災に対し、消防がほとんど機能しなかったのです。

初期消火ができずに、2~3時間で町全体に火が回ったのです。

復興方針として、温泉復興と教育復興を理念に掲げ、安全が住民だけでなく、お客にとっても必要と位置づけるとともに、子どもの居場所としての学校を重視し、5日後授業を再開しました。

町民・旅館組合等による、数10回の町民大会など、住民参加が積極的に行われました。

河川修理(川幅拡幅、直線化)と緑地(公園、柳並木)・道路整備(幅員拡張、直線交差)が行われ、延焼遮断帯と景観とをマッチさせる試みが行われました。

防火建築群による、町の分割が計画されました。

新城崎の温泉場は平屋建て、他は2階建てを限度に、旅館はコンクリートの、純日本建築に、家族湯も新設するなど、不燃建築化が計画されました。

小公園・緑地の設置で、防火帯の形成を行い、数少ない防火資産を、最大限活用したのです。

外湯温泉の不燃化、早期復興も計画され、実行されました。

城崎の復興計画は、旅館業者が中心で、住民の被害が同程度の条件があるものの、町民が積極的に計画に参加しました。

町長の強い指導により、明確な理念のもと、不燃建築などでの、防火帯の形成などは優れたもので、学ぶべき点が多いと思われます。