阪神淡路大震災の震源地や場所は?
阪神淡路大震災は、1995年1月17日午前5時46分、明石海峡付近で、深さがおよそ14キロメートル付近で始まりました。
地震の規模はマグニチュード7.3。
岩盤の崩壊は、2方向へ両サイドへと割れていき、ひとつは、北東方向の神戸市須磨へと割れ、ひとつは南西方向へ淡路島中部まで。
地震は10数秒後に止まり、長さはおよそ50キロメートルにも達しました。
物体に働く力は、加速度に比例します。
地震動について、加速度の単位ガル(Gal)で示しますと、
神戸海洋気象台での記録は、加速度は東西617ガル、南北818ガル、上下方向が332ガルでした。
大きな揺れが続いたのは、地震計の記録からは、数秒でした。
震度7で、家屋の全壊率が30パーセントを超えたと、気象庁が発表しました。
1948年の福井地震以来の強震動です。
神戸市須磨区から西宮にかけて、長さおよそ20キロメートル、幅およそキロメートルの帯状に分布する、激震域です。
有馬-高槻構造線は、動きませんでした。
震災の帯は余震分布を一致せず、その南側に位置しています。
加速度と地盤の関係は、花岡岩岩盤の六高台では305ガルでしたが、地震被害に地盤が甚大な影響を与えた、沖積地盤(ちゅうせきじばん)では833ガルで、花岡岩岩盤の2~3倍でした。
阪神淡路大震災の火災被害など、被害の特徴は?
阪神淡路大震災での死者・行方不明者は6433人、負傷者は4万人を超えました。
特に、地震直後の死者の8割は、住宅の倒壊と、大型家具の転倒による圧死です。
焼死者は、およそ10パーセントでした。
20万棟の住宅が全半壊しました。火災は約7000棟。
のちの復興に大きく影響したのが、大規模な住宅倒壊でした。
1981年施工の、古い耐震基準以前の住宅が多く倒壊し、およそ95パーセントに達しています。
ライフラインの被害も、被災者に過酷な影響を与えました。
電気の回復は1週間程度でしたが、水道・ガスの全面回復には2~3ヶ月を要しました。
阪神淡路大震災での広域な火災は、神戸市が中心でした。
長田地区では、老朽化した店舗や家屋、この地区で多いケミカルシューズ工場(合成皮革製の靴)の被害が大きかったのです。
消防力の対応は、同時多発火災では、十分に発揮できませんでした。
消防庁の発表では、焼失面積はおよそ100ヘクタール、出火件数は293件でした。
地震後の通電による、ショートでも火災が発生しました。これは大きな課題となります。
都市部での広域火災に、大きな警鐘を鳴らしましたが、対策はなかなか進んでいません。
ポートアイランドなど、地盤の大規模な液状化は、阪神淡路大震災でも見られました。
液状化した、神戸港の護岸背後の地盤や岸壁は、側方へ流動したせいで、海側に岸壁がはみ出して、1メートル~2メートルも沈下したのです。
エプロン部(L型の側溝)では、大規模な陥没や沈下がおこり、神戸港の機能の、およそ8割が長期間麻痺しました。
猪名川(いながわ)でも著しく損傷しました。
河川の堤防でも液状化がおこり、淀川左岸堤防では3メートルも沈下しました。
埋めた埋土地や、内陸部の池や谷で、液状化が生じました。
地山(盛土・表土・堆積物に対し、それらに隠されている自然のままの地盤)近くの埋土層下部付近が、液状化して滑り、住宅が傾くなどの被害が多発しました。
液状化した須磨港や御影浜で、タンクが2~3メートルも移動し、火災が生じる寸前だったそうです。
液状化は自然地盤でも発生しています。
液状化は、およそ6400年前の、縄文海進時の海底に、堆積した軟弱な沖積層や、旧可動でも多発しています。
南海トラフ地震は、3分を超える地震動が、継続する可能性があるため、これ以上の大規模な液状化が、起こることが想定されています。